「モダニズムの建築」向井正也著

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本棚をあさっていると学生時代に読んでいた本に目が留まる。

向井正也氏の「モダニズムの建築」

阪神大震災で壊れたアパートから引っ張り出してきてから、いまだに顕在である。(ブックカバーがなくなってしまったけど)

本の中で向井氏は近代建築をヴォリューム、空間とスケール、テクスチュア、対比の項目に分けて解いていく。

読み返していってみても頭に入っていくものと、いまだにウーンと考えこんでしまうものもあるが、とりわけ気になるのはテクスチュアの項目

写真について書いてある

モホリ・ナギの引用として「広範な造形の分野において、その視覚的表現の基準は新しい写真が提供する視覚的な栄養によって養われている」と

モホリ・ナギも別の本で装飾はディテールにとってかわられるといい、なぜならば写真がそれを可能にするといっていた。

 

カメラに語りかける自然は、目に語りかける自然とは違う。その違いは、とりわけ人間の意識に浸透された空間の代わりに、無意識に浸透された空間が現出するところにある。人は誰しも、たとえば人々の歩き方を、大まかにであれ陳述できるだろうが、足を踏み出す瞬間、一秒の何分の一かにおける人々の身のこなしについてとなると、確かにもう何も知らない。(略)こういう視覚的無意識は、ちょうど、情動的無意識が精神分析を通じて知られるように、写真を通じてようやく知られるのである。」(ベンヤミン 写真小史)

 

今では建築の評価に写真が大きくかかわってきているのも確か。建築を表現(宣伝)するために写真は欠かせなくなってきている。

僕もブログでそうやるし、建築雑誌でいろいろとみてしまう。

写真が作り出す空間があるのも事実だけど、ただ写真だけに頼る空間だけはつくりたくないなあ・・

いやいやむしろそんな写真の中にこそベンヤミンの言うように無意識に浸透された思いついたことのないものがかくれたりするのかなあ・・と思いにふける。

 

(そしてこんなことも)

内藤廣さんは、よく岡山で講演してくださるときに100年先の建築を考えるときは、今から100年昔がどうであったかを考えてみるとよいという。

ちょうど1910年代はオランダではデ・スティルが、ロシアではヴフテマスをはじめロシア構成主義が、そしてドイツではバウハウスが始まる。

日本では辰野金吾、長野宇平治、武田五一などが作品を作り始め1920年代の分離派の運動へとつながっていく。

モホリ・ナギがハンガリーのMAを中心に活動したのもこのころでやがてバウハウスへ参加していく。

ちょっと大げさな話かもしれないがあの時からの変化をもう一度考えてみよう。

 

こんな感じでこの週末、頭の中がグルグル回って結論が出てこない。まあそんな時もありかな?